この記事では、新日本プロレスが、2000年代中盤の暗黒期を抜け出して、復活するまでにどんなことをしたのか、想像に基づき書いています。
このブログは、新日本プロレスがかつての不況を乗り越えた姿から、日本企業復興のヒントをつかむために開設しました。最初の頃に、どうして新日本プロレスが不況(暗黒期)を迎えたのか書いたきり、どうやってそれを乗り越えたのか書き忘れていました。当時感じていた事を振り返りながら書いているので、かなり空想が入っていますが、1つの意見としてご参考にして頂ければ幸いです。
(多くは想像込み)
当ブログでは、過去2回にわたり、新日本プロレスが暗黒期に陥った原因を振り買ってきました。
新日本プロレスにみる、日本企業復興のカギ?(混迷編1)
新日本プロレスにみる、日本企業復興のカギ?(混迷編2)
新日本プロレスの暗黒期に起こった事として、売り上げ(観客動員数)が減少し、社員(選手)が離脱し、経営が迷走した、と私は考えていました。
その原因は4つあると考えました。
原因1:大会場へのこだわり = 身の丈に合わない商売
原因2:自前レスラーの軽視、外敵偏重 = いびつな人事
原因3:中途半端な格闘技路線 = 流行への中途半端な迎合
原因4:独裁政権による迷走 = オーナー独裁者の存在
これを如何にして解決していったか、新日本プロレスの復興策を、想像を働かせながら考えました。客観的事実は一切使っていないので、あくまで私の想像です。
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招待券出しまくりだったと思しき年3回も開催されていたドーム大会を2006年以降は年1回に絞りこみました。そして比較的小さい会場である後楽園ホールでも団体の最高カードであるIWGPヘビー級タイトルマッチを行うようになりました。
新日本プロレスのサイトをざっと見た限り、2007年5月に永田裕志が越中詩郎と行ったのが久々の後楽園ホールのIWGPヘビー級選手権試合で、その前となると1988年の藤波対アントニオ猪木までさかのぼります。
私はこれはとても良い事だと思いました。プロレスの満足度って、会場の密度に結構左右されます。例えば東京ドーム(定員5万人くらい)に5000人集めた場合の熱気は、後楽園ホール(定員2000人くらい)に2000人集めた場合の熱気に到底かないません。ガラガラの東京ドームで見た人は、「熱気が無くてつまらなかった」となって二度と大会に足を運ばないかもしれませんが、満員の後楽園ホールで見た人は「すごい熱気だった。次回も見たい。早めにチケットを取らないと見れないかも!」とまで思うかもしれません。
会場規模を下げて堅実な興行を行うようになり、昔に比べて少しずつチケットが取りにくくなり、観客は熱狂するようになったはずです。
1つ目のステップは、レジェンド軍のリストラ?です。
新日本プロレスの人気が一番低迷していた時期を脱したころ、1つの人気派閥がありました。それが「レジェンド軍」とよばれる派閥です。長州力をはじめとする、80年代から人気のあったレスラーたちです。彼らの入場だけで会場は大盛り上がりしていたようです。しかし、私はこれに危機感を覚えていました。これから復興するにあたり、過去の名前に頼っていては未来はないです。彼らがどんなに歓声を浴びていても、あと10年もリングに上がるのは難しいです。
それは会社側も分かっていたのか、ちょうど時を同じくして「レジェンドプロレス」なる興行が開催される機会が増えてきました。レジェンドメンバーたちとインディー選手が出場する、新日本プロレスとは別の興行です。
これは、新日本プロレスの興行から徐々にレジェンド軍を切り離して行く(リストラに近い?)とても穏便で、お互いに損をしない別れ方だったように感じます。
会社で例えると、給料の高いベテラン社員たちを、彼らの得意分野で光らせながら彼らの独立を支援して、独立ができる基盤ができたら会社を「卒業(退社)」してもらうようなやり方でしょうか。
2つ目のステップは外敵依存をやめたことでしょう。
暗黒時代の新日本プロレスの外敵への依存ぷりは本当にひどかったです。K-1やPRIDEから選手を招聘しては新日本所属レスラーが惨敗したり、ノアの興行に出ては負ける(力皇対棚橋)、会社を辞めて行ったけれども人気があるレスラーの出戻りは大歓迎(武藤、健介、小島)して現在の王者に安易に挑戦させた挙げ句にベルト流出、全盛期過ぎた大物外国人レスラーを招聘する(アングルやレスナー)、外敵軍団の結成(アマレス軍)…と、思い出すだけで滅入るようなエピソードだらけでした。
とにかく大会場を押さえてしまっているため、知名度の高い選手(大抵は所属外の選手)を呼んで、動員を増やす。(で、増えた分の動員は彼らのギャラに消えてるから結局プラマイゼロなはず。)
でも、K1やPRIDEの衰退に伴い異業種交流をする必要はなくなり、安易な外敵依存は辞めたあたりから、自前レスラーを育てる覚悟が出てきたように思います。
会社で考えると、長期的な戦略で、安易な異業種参入や見境のない即戦力採用・外部リソース依存をしていると、いつの間にか伸びしろがなくなるということでしょうか。
そして3つ目にして一番大事なのが、自前選手育成に重点を置いたことでしょう。
新日本プロレスは、暗黒時代でも中邑や棚橋を大事にしてきました。たとえ人気が出ていなくても、王座戦に挑戦させ続けました。その結果、2人はしっかりとエースに成長しました。最初はおよびでなかった真壁もインディー参戦の経験を糧に、予期せずトップまで上り詰めてきました。
それだけではまだコマが足りないので、後藤・内藤・オカダをプッシュしました。この中ではオカダがすぐに結果出しました。毎年1人程度は新人もデビューしており、定期的に若手を採用している強みが実ってきました。
会社で言うと、新卒採用はやめてはいけないし、常に次世代のリーダーを育てるような気概で社員が成長するような機会を与えないといけないということでしょう。
昔は「ヘビーにしては細身」だった棚橋は無駄の無い身体でスピーディーな動きを売りにしています。中邑は格闘技寄りのスキルを活かし、飛び技や投げ技が少ないファイトスタイルに定着しました。他にも必殺技で決めるべく試合を組み立てる選手が多くなりました。
蹴りと関節の格闘技路線でもなく、飛び技主体のドラゲー路線でもなく、ノアや旧全日本プロレスのカウント2.9999プロレスでもなく、旧ハッスルやWWEほどエンターテインメント路線でもありません。2010年代の現在の新日本プロレスのスタイル、というものを完全に確立しているように感じます。
会社でいうと、自分たちの得意分野を差別化しつつ最大限に伸ばすことが大事、ということでしょう。
この2つの親会社に共通することは、どちらも自分たちの本業を伸ばす為に新日本プロレスを「利用している」ということでしょう。
日本人の感性からすると「カネの為にプロレスを利用するのか!」と思いがちですが、選手に給料を払っている以上、プロレスは間違いなくビジネスです。ビジネスが儲かるための活動をすることは当然のことであり、幸運にして親会社との組み合わせが機能したのです。
ユークスはゲーム会社でした。プロレスの知名度や人気が上がればプロレスゲームの売り上げは増えます。そこまでプロレスゲームが売れたのかは私は疑問に思っていますが、プロレス以外のゲームでお金があったので、プロレス部門が多少赤字を出していても、赤字を減らすための施策をコツコツうてたのではないかと想像します。
その施策(これまで挙げてきたものが関連するはず)が徐々に実を結び、次のオーナーであるブシロードにバトンタッチしたのでしょう。同じゲーム会社でもブシロードはカードゲーム会社です。短いスパンでは1人のお客に1つのゲームしか売れないユークスに対し、ブシロードは1人のお客にカードを何枚も売りたい、という違いがあります。そんな彼らが作り出したのがカードゲームであるキングオブプロレスリングです。選手や選手の技が一枚一枚カードになってるため、カードの宣伝がそのまま選手の宣伝になります。興行とカードゲーム、同時に宣伝できるというメリットがあったのでしょう。
私が見ている世界が偏っているということはあるかもしれませんが、宣伝の効果もあって、キングオブプロレスリングはそこそこ成功しているように思います。一度基盤を作れば、カードの制作費・追加開発費等はそこまで高いはずも無いと想像するので、わりと利益を生みやすいビジネスなはずです。
会社でいうならば、Win-Winな相手と手を組もうということでしょう。
というわけで、プロレスファンである1人の若手サラリーマンから見た、新日本プロレスはどうやって経営を立て直してきたのか、という事を書いてみました。言葉足らず、事実認識が曖昧な点などは多々ありますが、公開いたします。
そんな事を考えていたら新日本プロレスについて書いたムーギーキムさんのコラムを読んでしまい、先を越された!と思いつつも、どうしても形にしたくて今更ながら執筆した次第であります。
正直、キングオブプロレスリングは開封動画でしか知りません。
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このブログは、新日本プロレスがかつての不況を乗り越えた姿から、日本企業復興のヒントをつかむために開設しました。最初の頃に、どうして新日本プロレスが不況(暗黒期)を迎えたのか書いたきり、どうやってそれを乗り越えたのか書き忘れていました。当時感じていた事を振り返りながら書いているので、かなり空想が入っていますが、1つの意見としてご参考にして頂ければ幸いです。
振り返り:新日本プロレス没落の道
(多くは想像込み)
当ブログでは、過去2回にわたり、新日本プロレスが暗黒期に陥った原因を振り買ってきました。
新日本プロレスにみる、日本企業復興のカギ?(混迷編1)
新日本プロレスにみる、日本企業復興のカギ?(混迷編2)
新日本プロレスの暗黒期に起こった事として、売り上げ(観客動員数)が減少し、社員(選手)が離脱し、経営が迷走した、と私は考えていました。
その原因は4つあると考えました。
原因1:大会場へのこだわり = 身の丈に合わない商売
原因2:自前レスラーの軽視、外敵偏重 = いびつな人事
原因3:中途半端な格闘技路線 = 流行への中途半端な迎合
原因4:独裁政権による迷走 = オーナー独裁者の存在
これを如何にして解決していったか、新日本プロレスの復興策を、想像を働かせながら考えました。客観的事実は一切使っていないので、あくまで私の想像です。
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復興策1:堅実な興行への切り替えた(後楽園を毎回満員にする)
いちばんひどかった頃の新日本プロレスは、定員約2000名の会場である後楽園ホールを半分も埋められていなかったように思います。(2008年の星野勘太郎 対 外道が行われた大会は、公称1800名となってたけど本当にガラガラだった)。招待券出しまくりだったと思しき年3回も開催されていたドーム大会を2006年以降は年1回に絞りこみました。そして比較的小さい会場である後楽園ホールでも団体の最高カードであるIWGPヘビー級タイトルマッチを行うようになりました。
新日本プロレスのサイトをざっと見た限り、2007年5月に永田裕志が越中詩郎と行ったのが久々の後楽園ホールのIWGPヘビー級選手権試合で、その前となると1988年の藤波対アントニオ猪木までさかのぼります。
私はこれはとても良い事だと思いました。プロレスの満足度って、会場の密度に結構左右されます。例えば東京ドーム(定員5万人くらい)に5000人集めた場合の熱気は、後楽園ホール(定員2000人くらい)に2000人集めた場合の熱気に到底かないません。ガラガラの東京ドームで見た人は、「熱気が無くてつまらなかった」となって二度と大会に足を運ばないかもしれませんが、満員の後楽園ホールで見た人は「すごい熱気だった。次回も見たい。早めにチケットを取らないと見れないかも!」とまで思うかもしれません。
会場規模を下げて堅実な興行を行うようになり、昔に比べて少しずつチケットが取りにくくなり、観客は熱狂するようになったはずです。
復興策2:自前レスラーの重視
新日本プロレスの自前レスラーの重視にはは、3つのステップがあったと思います。1つ目のステップは、レジェンド軍のリストラ?です。
新日本プロレスの人気が一番低迷していた時期を脱したころ、1つの人気派閥がありました。それが「レジェンド軍」とよばれる派閥です。長州力をはじめとする、80年代から人気のあったレスラーたちです。彼らの入場だけで会場は大盛り上がりしていたようです。しかし、私はこれに危機感を覚えていました。これから復興するにあたり、過去の名前に頼っていては未来はないです。彼らがどんなに歓声を浴びていても、あと10年もリングに上がるのは難しいです。
それは会社側も分かっていたのか、ちょうど時を同じくして「レジェンドプロレス」なる興行が開催される機会が増えてきました。レジェンドメンバーたちとインディー選手が出場する、新日本プロレスとは別の興行です。
これは、新日本プロレスの興行から徐々にレジェンド軍を切り離して行く(リストラに近い?)とても穏便で、お互いに損をしない別れ方だったように感じます。
会社で例えると、給料の高いベテラン社員たちを、彼らの得意分野で光らせながら彼らの独立を支援して、独立ができる基盤ができたら会社を「卒業(退社)」してもらうようなやり方でしょうか。
2つ目のステップは外敵依存をやめたことでしょう。
暗黒時代の新日本プロレスの外敵への依存ぷりは本当にひどかったです。K-1やPRIDEから選手を招聘しては新日本所属レスラーが惨敗したり、ノアの興行に出ては負ける(力皇対棚橋)、会社を辞めて行ったけれども人気があるレスラーの出戻りは大歓迎(武藤、健介、小島)して現在の王者に安易に挑戦させた挙げ句にベルト流出、全盛期過ぎた大物外国人レスラーを招聘する(アングルやレスナー)、外敵軍団の結成(アマレス軍)…と、思い出すだけで滅入るようなエピソードだらけでした。
とにかく大会場を押さえてしまっているため、知名度の高い選手(大抵は所属外の選手)を呼んで、動員を増やす。(で、増えた分の動員は彼らのギャラに消えてるから結局プラマイゼロなはず。)
でも、K1やPRIDEの衰退に伴い異業種交流をする必要はなくなり、安易な外敵依存は辞めたあたりから、自前レスラーを育てる覚悟が出てきたように思います。
会社で考えると、長期的な戦略で、安易な異業種参入や見境のない即戦力採用・外部リソース依存をしていると、いつの間にか伸びしろがなくなるということでしょうか。
そして3つ目にして一番大事なのが、自前選手育成に重点を置いたことでしょう。
新日本プロレスは、暗黒時代でも中邑や棚橋を大事にしてきました。たとえ人気が出ていなくても、王座戦に挑戦させ続けました。その結果、2人はしっかりとエースに成長しました。最初はおよびでなかった真壁もインディー参戦の経験を糧に、予期せずトップまで上り詰めてきました。
それだけではまだコマが足りないので、後藤・内藤・オカダをプッシュしました。この中ではオカダがすぐに結果出しました。毎年1人程度は新人もデビューしており、定期的に若手を採用している強みが実ってきました。
会社で言うと、新卒採用はやめてはいけないし、常に次世代のリーダーを育てるような気概で社員が成長するような機会を与えないといけないということでしょう。
復興策3:自分たちの良いところを活かすスタイル
今の新日本プロレスの試合スタイルは、思っている以上に他団体と差別化できているように思います。昔は「ヘビーにしては細身」だった棚橋は無駄の無い身体でスピーディーな動きを売りにしています。中邑は格闘技寄りのスキルを活かし、飛び技や投げ技が少ないファイトスタイルに定着しました。他にも必殺技で決めるべく試合を組み立てる選手が多くなりました。
蹴りと関節の格闘技路線でもなく、飛び技主体のドラゲー路線でもなく、ノアや旧全日本プロレスのカウント2.9999プロレスでもなく、旧ハッスルやWWEほどエンターテインメント路線でもありません。2010年代の現在の新日本プロレスのスタイル、というものを完全に確立しているように感じます。
会社でいうと、自分たちの得意分野を差別化しつつ最大限に伸ばすことが大事、ということでしょう。
復興策4:ビジネスという観点で結びついたオーナー企業
アントニオ猪木が新日本プロレスのオーナーだった頃は、ずいぶんと借金を抱えていたようです。でも、猪木が膨らませた借金は、以前の親会社のユークスが被ってくれたようです。そしてユークスからブシロードへと親会社は変わりました。この2つの親会社に共通することは、どちらも自分たちの本業を伸ばす為に新日本プロレスを「利用している」ということでしょう。
日本人の感性からすると「カネの為にプロレスを利用するのか!」と思いがちですが、選手に給料を払っている以上、プロレスは間違いなくビジネスです。ビジネスが儲かるための活動をすることは当然のことであり、幸運にして親会社との組み合わせが機能したのです。
ユークスはゲーム会社でした。プロレスの知名度や人気が上がればプロレスゲームの売り上げは増えます。そこまでプロレスゲームが売れたのかは私は疑問に思っていますが、プロレス以外のゲームでお金があったので、プロレス部門が多少赤字を出していても、赤字を減らすための施策をコツコツうてたのではないかと想像します。
その施策(これまで挙げてきたものが関連するはず)が徐々に実を結び、次のオーナーであるブシロードにバトンタッチしたのでしょう。同じゲーム会社でもブシロードはカードゲーム会社です。短いスパンでは1人のお客に1つのゲームしか売れないユークスに対し、ブシロードは1人のお客にカードを何枚も売りたい、という違いがあります。そんな彼らが作り出したのがカードゲームであるキングオブプロレスリングです。選手や選手の技が一枚一枚カードになってるため、カードの宣伝がそのまま選手の宣伝になります。興行とカードゲーム、同時に宣伝できるというメリットがあったのでしょう。
私が見ている世界が偏っているということはあるかもしれませんが、宣伝の効果もあって、キングオブプロレスリングはそこそこ成功しているように思います。一度基盤を作れば、カードの制作費・追加開発費等はそこまで高いはずも無いと想像するので、わりと利益を生みやすいビジネスなはずです。
会社でいうならば、Win-Winな相手と手を組もうということでしょう。
というわけで、プロレスファンである1人の若手サラリーマンから見た、新日本プロレスはどうやって経営を立て直してきたのか、という事を書いてみました。言葉足らず、事実認識が曖昧な点などは多々ありますが、公開いたします。
そんな事を考えていたら新日本プロレスについて書いたムーギーキムさんのコラムを読んでしまい、先を越された!と思いつつも、どうしても形にしたくて今更ながら執筆した次第であります。
正直、キングオブプロレスリングは開封動画でしか知りません。
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